きもち

日々の大事なことばたち

アイデンティティ

「この前、前の彼氏にあってさあ」

最近の女の子は、ずいぶん大胆だ。電車の中にもかかわらず、人目を気にせずプライベートな話を暴露する。

「まじありえないんだけどー」

ぎゃはははと若者特有の笑い方をする。周りからの白い目に、たいてい本人たちは気づいてない。
そんな私は恋人とこの前別れたばかりで、いまならこの子たちの話に入れるかもとか思ってしまう。うんうん。わかる。男ってそうよね、女ってそうよね。男女ってそうよね。

前の彼氏は二つ上の34歳。そろそろいい歳だし、結婚も考えていた。とても優しかったし、子供好きで、料理もできる人だった。わたしが何をしても怒らず、甘やかされていた。わたしもどんどんわがままになっていったのだと思う。
優しすぎて、面白くなかった。

わたしも32歳だし、結婚結婚と身内から言われ、鬱陶しく思っていたから、そろそろ結婚してもいいかなあ、と思っていた矢先。
彼の浮気が発覚した。
とても甘やかされていた分、ショックだった。でも、なぜか安心した。それからスッと気持ちはなくなったのだけれど、なぜ彼が浮気に走ったのか謎のままで、彼はわたしを愛してくれていたのに、他の女のほうが魅力的だったのかと、彼への愛しさによる悲しみではなく、自分のアイデンティティの危機による憎しみに変わっていった。

だから別れてやらない。

私はあたかも浮気されて悲しいという演技をし、浮気を問い詰めた。こんなに愛していたのに、と。わたしが悲しむ顔をするので、彼は謝った。わたしを抱きしめた。そんなものは求めていなかった。だが、勝った。とわたしは思った。やっぱりわたしは世界に一人だけ。わたし以上なんていないのよ。と。浮気相手との写真を全部消させる。連絡先も消させた。
彼は、さみしかったらしい。わたしからの愛情が感じられなかったから。でも君が僕をこんなに好きでいてくれたなんて、気づかなかった。ありがとう。と泣いていた。わたしは何も感じなかった。でもわたしも彼を抱きしめ返した。

こんなことをして何になるのだ。
ただ自分のアイデンティティの為に、勝ち誇った気分になりたいが為に。

その日は実家に帰った。
母が何食わぬ顔で笑っていて、べちゃくちゃ喋りかけてくるのが鬱陶しかった。お風呂に入り、湯船に浸かると、涙が溢れてきた。声を殺して泣いた。別に本当に浮気が悲しかったわけじゃない。その後の自分の行動が、あまりに大人げなく、彼や浮気相手がかわいそうだなって思った。
涙が出るまで、泣いた。

お風呂から上がると、髪も乾かさずに寝た。風邪を引いたってなんだってよかった。ただ頭が痛かった。全部嘘ならよかったのに、と思った。



電車が目的地に着く。さっきの女の子たちは、今はあのカフェが美味しいだの、学校のあいつがウザいだの、わいわい喋っていた。

ああ、わたしもあんなふうに、からりと話せたら、きっともっと幸せな道があったのかなと思う。


電車から降りて、ふと深呼吸。

ちゃんと謝ろう。そして、ちゃんとお別れを言おう。

見慣れた合鍵のキーホルダーを取って、ポケットにそっと入れた。



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2015.08.02作